壷井明 展 東京報告 vol.7 Akira Tsuboi Exhibition Tokyo Report vol.7

2017.6.24&25
open:14:00 close 19:00

 今、この時間に、被爆しながら低賃金で過酷な労働を強いられている多くの原発作業員がいる、7年経って未だに応急仮設住宅と呼ばれるプレハブで帰る場を失った老人たちも大勢いる、汚染された土壌に怯えながらそれでもそこで生活するしかない母親や子供もたちもいる。
・・・そしてたった今、ベニヤ板に描かれた幾枚もの絵画の群れが誰もいないKENという空間にあり、それを僕は見つめている。絵の奥から、無名な人々の叫び声が鮮烈な沈黙で響いてくる。
・・・ずらり並んだ絵の中には、血が流れていてるのだ。壷井明はフクシマに幾度も足を運び、現地の人々の無数の言葉を記録し、それを身体的に受け止め、視覚化してきた。彼は棄てられた闇に生きる人々に光をあて、変化し続ける現地の状況を文字通りイラストレートしている。表現の動機とは何なのか。それは地べたに生きる人々に対するブレることのないシンパシーと妥協なしの反骨魂にある。要は信用できるのだ。ソフィスティケートされた一方で野生という反発力を失った最近の「アート」とは逆に壷井明の武器はその野生な知性と行動力とにある。故にその作品が目指すは美術館や画廊のようなナイーヴな空間ではない。そこは渋谷、新宿、原宿などの無数の他者が行き交う駅前、あるいは上野の国立美術館前、あるいは日曜日の午後、花見で賑わう代々木公園だ。そこで彼は、いくつものベニヤ板に描かれた祭壇画フォーメーションを組んでおもむろに晒しひろげる。そして狩人のように一人、即興トークを開始する。その際、耳無し芳一、義太夫、瞽女、一遍上人、あるいは創成期のラッパーのごとく、ずらり並んだ視覚伝達パネルもろとも、作家自身が生きたメディアとなる。通行人はだった他者、そこに立ちすくみ、突如現れた生き物のようなイメージの連続に吸い込まれてゆく。彼らの身体の奥で眠っていた想像力は一気に覚醒し、日常が崩れ去る時間がやってくる。芸術の可能性は、この危うい瞬間にある。この摩擦を呼び起こす路上パフォーマンスというかプレゼンテーション、かなり面白い。だれもが一度は体験すべき代物。テンション上がる。これはアドリブ全開なエンターテイメント、大学や美術館とかではお目にかかれない尖りまくった表現の現場そのものだ。街中でのこの一連のアクション、「ヒトが独りで立ち表現する」という、最も重要な自立のための基本形、芸事のルーツで原点だ。ジェームス・ブラウンもマルコムXもストリートからスタートしている。相手はサラリーマンだったりフリーターだったり外人観光客だったり女子高生だったりホームレスだったり警官だったり、そしてまたまたホームレスだったり、いきなり元原発作業員だったりとチャンス・オペレーションの連続。まさに現代絵師&語り部によるゲリラ展示ショーである。そしてこの行為、あのシロい枠に収めることを目的に作られた「アート」とは対極にある。当たり前だが客層もかなり違う。あえて言うならばこれはもう一つの別の現代美術だ。故に、だからこそ逆に世界基準な活動そのものなのであり、そういう時代に我々は生きている。(意味わかるか?)壷井明のこの独自なスタイルというかは、大胆でいて繊細、例えば幕末絵師の屏風絵を想起させる粘り強くうねる自己流画法も含め、これこそは私たちが失いかけているあの美しい反発力の証明であり、今となっては稀にみるFUNKなハプニング、とりわけこの時代、しかも(だれも何も言わない状態の)ここ日本ではとてもとてもイカした態度だ。壷井明のこの行為を、アート・アクテヴィズムなどと解釈し、都合の良い形にはめようとする研究者や鑑賞者がいるけれども、表現の本質を見ようとする意識がそもそも欠落してしまったその野暮なセンスに、教養主義の哀しい限界を感じるしかない。ちなみにこれはアカデミズムの否定ではない。視点がマンネリ化すると芸術を決して「視る」ことはできない、という意味での批判だ。で、彼の存在そのものが結果、何よりも定評主義で走るムラ社会な美術界への価値観についての問いかけでもあるのだ。とにかく自分の目で見て、自分の耳で聞くべし。・・・こっちは命をかけている。だから「そう簡単にわかられてたまるか」なのである。                           KEN

2017.6.24sat & 25sun
open:14:00 close 19:00

14︓00-展⽰スタート
両日15時より:壷井明トーク(約2時間)
スペシャル・ゲスト(25日のみ):森川雅美(詩人)