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『粟津潔、マクリヒロゲル 金沢21 世紀美術館コレクション・カタログ』出版記念
2012年9月29日(土)30日(日)10月6日(土)7日(日)

2007年の11月から2008年の3月にかけて、金沢21世紀美術館で行われた「荒野のグラフィズム 粟津潔展」。これは、その記録であり、今回、書籍とDVDが二枚、ポスターが一枚入ったありえない図録の完成に至ったのだ。
KENでは、この記念碑的な出版物の発行を祝ってパーティーを行った。
制作サイドのぼくがあえて言うのだから間違いないのだが、その内容、「わかる人」にとっては色んな意味で「凄い」の一言である。

日本写真印刷の奥田さん、古川さん。現代企画室の小倉さん。金沢の不動さん、石黒さんをはじめスタッフのみなさん。そして、何と言ってもこの困難な仕事を見事に形にしてくれたデザイナーの宮谷さんと中川さんに大きな感謝!

粟津潔の精神をマクリヒロゲルことがKENの仕事でもある、と思う。ぼくが、このような「場」を作ろうと決意したのも、金沢での展覧会とイベントが発端であり、今後もそれを忘れてはならない。
全部で四回行ったパーティーの最終回には、宮谷さん、中川さん、小倉さん、不動さんらがこられた。かつて粟津潔の映画「ガウディ」に音楽で参加した AYUOさんも来た。彼は歌を歌った。これがまたよかった。初日には、日本写真印刷を退職されたばかりの奥田亮さん(実はかなりなアーチスト)が登場。自 身で制作した「ひょうたん楽器」の簡単なワークショップ&ライヴを行った。

以下、この記録集に「マクリヒロゲラレタ場」というタイトルで掲載されたぼくの文章である。このような機会を与えていただき光栄だった。金沢21美 の学芸課長であり、この展覧会の立役者である不動美里さんの粟津論は、クールでありながらも実は極めて熱く、今のアート界に対して強いメッセージを放って いる。特に美術関係者には必読だと信じる。

「マクリヒロゲラレタ場」  粟津ケン

粟津潔の中から、少しずつ、けれども確実に、いくつもの記憶が次々と消え去ってゆくのがわかった。それはアルツハイマーという治らない病気だった。 川崎の生田にあるアトリエの倉庫に、無数の作品が資料や書物などにまみれ眠っている。そのことは知っていた。このタイミングでこれをどうにかしなければな らない。やるのは今や自分しかいない。ある種の使命感に後押しされ、ぼくは心を決め、このジャングルじみた世界へ入っていった。粟津潔という作家に、親子 という領域外で本気でかかわる事になってしまったのは、人生を独りで切り開き、全てを決定してきたアーティスト自身がそれをできなくなってからだった。時 を超えた生々しい作品一つ一つが、アトリエの天窓から注いでくる光の中に真新しくその姿を現してゆく。これは大変なことだと直感的に悟った。異なるイメー ジの連続が、得たいの知れない沈黙で叫んでくる。その無言の、無数のメッセージが。

粟津潔が館長をしていた印刷博物館がある。その施設の一部であるギャラリーで個展をできないかと館の方に申し入れてみた。すぐに快諾していただい た。古くは50 年代の作品から近年までのイラスト、ポスター、絵画、版画、さらには映像作品までを、友人のデザイナーや学芸員と共に選び抜き、隙間なく、展示した。もち ろんこれは巨大な氷山の一角に過ぎなかったが、粟津潔作品を今後どう社会化してゆけばいいのか、これをきっかけに見極められるかもしれないという思いがぼ くにはあった。

そこから話は一気に展開、加速してゆく。開期中に、粟津潔に近しい友人の紹介で、金沢21 世紀美術館の蓑豊館長(当時)が来てくれた。彼は、ゆっくりと作品と向き合い、多くを語らず、帰っていった。次の日、なぜか浮遊する亀のイメージの中、ぼ くは明治通りを原宿方向へ歩いていた。見知らぬ番号より携帯電話が鳴った。蓑館長だった。彼は、「粟津潔さんの全作品を寄贈してほしい」と一言、明るいリ ズムで真っすぐに言い放った。そして、あれは確か三日後の最終日、学芸課長の不動美里さんがギャラリーに登場する。思えば、これが粟津潔という「荒野」へ 突入してゆくその美しい瞬間だった。

粟津潔は、美術館やギャラリーといったメディアで自身の作品を社会化することを、その目的にしてこなかった。街が美術館で、複製物が教師だと宣言し て以来、生涯そんな感じだった。巷の「絵師」、そして生活者である、という心をつねに生きてきたと思う。というか、きっとそういう生い立ち、性分なのであ る。そんな彼の50 年以上にも及ぶ仕事が、この真新しい、真っ白な空間でいったいどのように露出されるのか。全く想像できなかった。不似合いなのではないか、などとも思っ た。

そして、その日。一歩その展示室に足を踏み入れた。瞬間、無数の粟津潔が、鮮やかに、いつものように孤独に、元気に、踊りまくっていた。この大胆か つ繊細な展示デザインは、不動美里さんによるものだった。彼女は粟津潔に会ったことがない。話したこともない。それでも彼の作品と、芸術に身体ごと生きる 彼女が、真っ向から対峙してゆく中、この世界につきまとう権威や政治や金、それを超えた境地にある同族的アートな共鳴が、キラリと響いたのではないだろう か。彼女の中で。魂レベルで。

粟津潔が亡くなって早くも三年近くの時間が過ぎた。今、「荒野のグラフィズム粟津潔展」をやっと振り返ることがで
きる。入院中だった彼を、どうしても金沢へ連れてゆくことはできなかった悔しさは多少残っている。けれども、本人不
在の中、4 ヶ月間、いくつもの展示室を使用した大回顧展の最中、一番大きな展示室を中心に、毎週末の怒濤の勢いで「芸術とはこういうもんだ」と言わんばかりの「超」 がつく多様なイベントが連続的にハプニングした。音楽家、デザイナー、美術家、映画監督、批評家など、その大半は様々なアートを粟津潔と共に一から起こし てきた人たちだった。コンサートなどをはじめとするそれらのライヴは、時には観客をも巻き込みながら美術館という空間を能動的な生物のように変化させ続 け、同時にこの展覧会のもう一つの重要なスピリットになっていったのだ。

あらゆる表現分野で活動してきた粟津潔。専門的な視点だけでは伝えられないことをその作品はじっと証明している。彼は、その生涯を好奇心の塊として 生きてきた。対象に惹きつけられたら、それに向かってとことん突っ込んでゆく態度を最後まで貫き、仕事をしてきた。枠を知らないアクションへの答え、その リアクションがこの一連のイベントであり、それは一つの創造からまた別の創造が生まれようとする、マクリヒロゲル、という言葉の実践だった。

ぼくに「荒野のグラフィズム粟津潔展」がもたらしたこの普遍的な価値観を、今どう書いてよいのかよくわからない。
ただそれがいつの時代にあっても、芸術における重要な何かであるということだけは確信してる。粟津潔のデビュー作とも言える1955 年の「海を返せ」。無名な漁師の顔がそこにある。飛び出す色彩、シルク・スクリーンで複製化された1971年の「ANTI-WAR」にある顔も、また無名 だ。そして、1990 年に産声を上げた「H20 EARTHMAN」。この頭の大きな裸の子供はいったいだれなのだろうか?「焼け野原」だった東京を原風景に、彼はいくつものクライシスな時代を生きてき た。その都度、その時代における彼が視て、感じた「今」を表現してきた。

粟津潔はもういない。彼が、その「今」を元気で生きていたら、どんな仕事をしていただろうか。バッハやジェームス・ブラウンの音楽が今でも生きてい るように、彼のやってきた仕事、あるいはその表現に向かう態度が、これから先どのように受け継がれ、伝えられてゆくのか。あるいは忘れられるのか。 2012 年という「今」を生きている我々の意識や根性に委ねられていることだけは確かだ。

人が芸術に出会い、芸術を通して人が人と出会う。
この展覧会で、初めて、粟津潔の真髄を知った。
それまで未経験だった発見=感動も多くの方からいただいた。

アリガトウゴザイマシタ。心から。